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軍人敕諭

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軍人敕諭是日本在1882年由明治天皇頒佈的對軍人訓令
中文名
軍人敕諭
地    點
日本
出    自
明治天皇頒佈的對軍人的訓令
頒佈時間
1882年

目錄

軍人敕諭原文

  • 陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)
  • 我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御製にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に效はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟樑たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御製に背き奉り淺間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大將軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海內一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも並我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
  • 一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の眾に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
  • 一 軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の為にもゆるし難き罪人なるへし
  • 一 軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては葉ふまし況して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
  • 一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
  • 一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閒にな思ひそ
  • 右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
  • 明治十五年一月四日
  • 御名

軍人敕諭中文對照

軍人敕諭
我國軍隊世為天皇所親御。自昔神武天皇親率大伴物部之兵。以平中國(指神話中的“葦原中國”)。而卽帝位。統治天下以來。凡二千五百有餘年矣。其間因時代之變遷。而兵制亦屢有改革。古制軍隊為天皇之所親御。有時雖以皇后或太子代之。然未有以兵權委諸臣下之例。至於中世。文武制度皆仿諸中土。而有六衞府左右馬寮防人等之設。兵制漸臻完備。惟以國內習於昇平。政務流於文弱。兵農乃分而為二。古之徵兵者消滅於無形。轉而為壯兵。以至於武士興焉。其後兵馬之權。遂歸於武士首領之手。迨及世亂之時。政權亦復歸其掌中。前後七百年間。遂成為武家之政治矣。時之所趨夫既如斯。固非人力所可挽回。惟以有違我國之國體。有背祖先之制度。殊堪浩嘆。降至弘化嘉永之頃。德川幕府政治日衰。同時又值外邦多事之秋。外侮之來殆有迫於眉睫之勢。是以皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇日夜憂慮。不遑甯處。朕沖年踐祚。徵夷大將軍歸還其政權。奉上其版籍。不經年而海內一統。恢復古制矣。雖為列祖列宗慜念蒼生之遺澤。然非我文武忠臣輔佐朕躬。全國臣民能辨順逆。曷克臻此。是以際此之時。卽思改更兵制。以光我國。遂於十五年之間。規定今日陸海軍之制度。兵馬大權。由朕親統。所司之事委諸臣下。然其大綱仍歸朕總攬。不可委之於臣下。後世子孫須善體斯旨。保存天子掌握文武大權之義。勿復蹈中世以降之覆輒。是則朕所深望者也。朕既為汝輩軍人之大元帥。故卽倚汝輩為股肱。汝等亦當仰朕為元首。效其親愛。朕之能否保衞國家。上應天心。以報祖宗之殊恩。全視汝輩軍人之能否克盡其職。我國威之不振。汝輩當與朕共其憂。我武惟揚光耀四海。汝輩亦當與朕共其榮。汝輩各盡其職。與朕一心。竭力衞國。則我國蒼生將享太平之福。吾國之威。亦可光耀於世矣。朕之深望於汝輩軍人也如斯,故猶有訓諭五條述之如左。
一、軍人當以盡忠盡節為本分。夫既享生於我國,其誰復無報國之心。而況於為軍人者。苟此心之不固。則何復能用。軍人報國之心既未能堅固。則雖技藝嫺熟。學術良優。亦猶木偶已耳。軍隊之隊伍雖整。節制雖嚴。然非有忠節之心。則亦等於烏合之眾。夫保護國家。維持國權。既惟兵力是賴。則當明兵力之消長。既為國運盛衰之所繫。故當毋為世論所惑。不為政治所拘。惟以守己本分之忠節為主。須知義有重於泰山。死有輕於鴻毛。慎勿喪失節操。而徒受無恥之汚名可也。
一、軍人須以禮儀為重。凡為軍人者。上自元帥。下至兵卒。期間自有官職階級之分。卽同列同級之中。停年亦有新舊。其新任者自當服從於舊任者。須知下級者之承上命。實無異承朕命。縱非己所隸屬。亦當視同一律。上級者固不待言。卽論停年較己為舊者。亦當盡禮表示敬意。又上級者對於下級者。亦不可有輕侮驕傲之舉。除為公務必當威嚴外。其餘務須懇切慈愛。上下一致。以勤王事。為軍人者苟於禮儀有虧。而失敬上惠下一致之和諧。是不啻為軍隊之蠹毒。亦且為國家之罪人矣。
一、軍人當尚武勇。夫武勇為我國古之所重。凡我臣民自非武勇不可。況軍人以臨戰殺敵為職志。又安可一時忘乎哉。然武勇有大勇小勇之分。拔劍而起。挺身而鬥。是皆非謂武勇。為軍人者。當善明義理。鍛鍊膽力。曲盡思慮以謀事。小敵不侮。大敵不懼。但求盡己之武職。此則所謂大勇者也。故尚武勇者。待人接物。常能温和。博得人類之敬愛。好勇無謀。動輒肆威。勢必至招人之忌。而使人畏之如豺狼也。
一、軍人當以信義為重。守信重義本為人類之常道。為軍人者苟無信義。卽難置身隊伍之中。信者踐吾言之謂。義者盡己責之意。欲求守信重義。必先審思事之能成與否。苟一旦冒眛輕諾。以致進退維谷。莫知所從。雖悔已無及矣。故於事之始也。當辨明順逆。審思是非。以期其言可以實踐。苟知其義之不可守。則當急流勇退。以免失信義背之譏。古者嘗有守小節之信義。而大綱之順逆。或惑於公道之是非者。此殊不可。英雄豪傑。每因重私情之信義。而遭殺身之禍。以致遺臭萬年者。亦復不少。可不戒哉。
一、軍人應以質素為旨。蓋不尚質素。則必流於文弱與輕薄。徒尚奢侈。則必陷於貪汚與無恥。遂至志氣為之消沉。節操為之喪失。武勇亦為之化為烏有。而為世人所不齒。終其生不得享受人世之幸樂。其愚可謂甚矣。軍人間苟有此風。則必如傳染病之蔓延。士風兵氣卽將隨之而衰頹。朕嘗以此為懼。故曾頒佈免黜條例。以為此事之誡。然猶慮有此等惡習之複復生。故復為是之訓誡。願汝輩軍人。毋以等閒視之。
以上五條為軍人不可須臾忽者也。必須誠心實行。蓋此五條。卽為吾輩軍人之精神。而誠心又為此五條之精神。苟不誠心。雖嘉言善行。亦為欺人之虛偽。心誠乃可成其事耳。況此五條。為天地之公道。人倫之常經。易行而且易守。願汝輩軍人善體朕意。謹守此道。以盡報國之忠。是此豈獨日本全國蒼生歡欣鼓舞。卽朕亦為之欣慰焉。
明治十五年一月四日
御名

軍人敕諭標誌

《軍人敕諭》的頒佈標誌着以儒學理念為核心的傳統武士道精神的新發展,為日本軍國主義的發展奠定了廣泛而堅實的思想基礎。民俗學家柳田國男曾指出:"明治維新以後,過去只佔日本人小數的武士階級的生活方式成了日本全體國民的理想。""日本全體國民的武士化,涵蓋了明治以後所有日本知識分子的生活方式。"《軍人敕諭》的確具有象徵的意義。敕諭的發起人山縣有朋和起草者西周都具有深厚的儒學素養,陸軍的締造者山縣有朋曾就學於松下村塾,深受吉田松陰思想的感染。西周被譽為"日本近代哲學之父",作為啓蒙主義和自由主義思想家活躍一時,但其思想的根基是植於儒學的沃土中。早在1878年上半年他就在軍中連續發表了著名的《兵家德行》的講演,強調兵家德行除應具備一般的智勇兼備、忠誠仁愛之外,更重視軍秩之制,官階等級之差。為確保軍中"忠良易直"之風尚而嚴格將其與當時社會上風行的"民權家風"、"狀師家風"(用法律來保護自己的權利的風氣)、"貨殖家風"相峻別。同年10月,山縣有朋發佈了《軍人訓誡》,其思想精神都體現在後來的《軍人敕諭》中。

軍人敕諭意義

《軍人敕諭》開宗明義,“我國軍隊世世代代為天皇所統率”,此乃日本的“國體”。在強調天皇對軍隊的絕對統率權,宣佈“朕是爾等軍人的大元帥的同時,也指出天皇與軍人一心相連,榮(譽)辱(憂)與共,朕賴爾等為股肱,爾等仰朕為頭首,其親特深。”之後對軍人精神提出五條標準,即“忠節”(軍人以盡忠報國為本分,義重於山嶽,死輕於鴻毛)、“禮儀”(“須知下級奉上級之命,實為直接奉朕命之義。”)《軍人訓誡》中規定“為部下者,其長官所命,縱有不合情理之處,亦不可有失恭敬奉戴之節。”)、“武勇”、“信義”、“質樸”。在結尾處將這五條標準歸為一點,即是“誠心”,“心誠則無不成”。並推而廣之,提而升之,説這五條標準是“天地之公道、人倫之常經”,這樣,“軍人精神”便具有了“普遍的”、“永恆的”意義。